稲田家と洲本城下町【新ひだか】
【新ひだか】町教委主催の町博物館第7回特別展示関連講演会「稲田家と洲本城下町」が16日、同館多目的集会室で開かれ16人が参加した。
この日は、兵庫県洲本市立淡路文化史料館の金田匡史(こんだ・まさし)館長がオンラインで会場を繋ぎ、スクリーンで講演。洲本城下町の変還と稲田家の関係、庚午(こうご)事変(徳島藩淡路洲本城下で洲本在住の蜂須賀家臣の武士が筆頭家老稲田邦植の別邸や、学問所などを襲った事件)が起きたきっかけ、北海道の日高地方に移住した足跡について、地図や当時の絵を交えて詳しく解説した。
1585年(天正13年)蜂須賀正勝(秀吉の家臣)の家臣だった稲田植元は、蜂須賀氏の阿波九城の一角の脇城(徳島県美馬市脇町にあった日本の城)の城主として阿波国に入った。
植元の子の示植は大坂冬の陣で功績を上げ、徳川家康から感謝状をもらった。1615年(元和元年)の淡路国加増に伴い、徳川秀忠と家光の上意で稲田家は淡路支配を任され、数々の功績で出世していったという。
1630年(寛永7年)に池田氏が築いた由良城を拠点に淡路支配をしていたが、冬の陣の戦略で有利な場所に建てていたこともあり、地理的に非常に不便なところがあって引っ越し(由良引け)が行われ、現在も残っている洲本城下町となっている。
1868年(慶応4年)に戊辰戦争が始まり稲田家は有栖川宮総督(江戸時代後期・明治時代の日本の皇族)の護衛隊として「稲田藩」を掲げたが、禄制改革により「卒族」士分格(武士身分)を有さない下級の家臣になってしまい。天皇の護衛まで務めたのにと藩庁(県庁)にお願いするが却下される。
ならばと有栖川宮や岩倉具視へ士族への編入を直接お願いするが、稲田家に出されたのは北海道移住開拓だった。
稲田家臣は開拓を承諾する代わりに分藩を願い出た。稲田家臣は身分が低いため政治、祭などに参加させてもらえなかったが、徳島の藩士より身分の低い稲田家臣の方が給料が高かったため、快く思われていなく、また藩士でもない稲田の家臣たちが勝手に行動していたため、徳島の藩士たちは非常に不満が募っている状態。これにより徳島藩士有志によって稲田家討伐行動が起きた事件が、1870年(明治3年)の「庚午事変」と解説。
1871年に政府の命で北海道開拓を命じられた稲田家や家臣は、日高地方に移住。その後も1万人を超える開拓移民があったという。
講演に参加した自分のルーツが淡路島にあるという本庄岳さん(47)は「明治の頃からの話は知っていたが、それより前の江戸時代からの繋がりが聞けて良かった」と話していた。